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第332回目のラジオ配信。「お寺でのお話」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

お寺の法要で行われる法話について。
今ではマイクや配布資料、パワーポイントのスライドや動画配信など、お寺ではさまざまな方法で仏様のお話を聞くことができます。
では昔のお寺ではどのように法話が行われていたのでしょうか。
今回は、お寺でのお話の仕方や聞き方が昔と今でどう変わったのかについてお話しします。
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回は、お寺の法要で行われる法話について、昔と今ではお話の仕方がどう変わってきたのかをテーマに短くお話ししていきます。
法事や法要のお勤めのあと、お坊さんや布教使がお話をされますよね。
浄土真宗ではそのお話のことを「法話」と言っています。あるいは「お説法・説教」とも言います。
法話も説法も説教も、どれも仏様のお話をすることです。
皆さんは法話というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。
お寺の本堂の前に立ったお坊さんがお話をして、それをお参りの皆様が静かに聞いている。
そんな光景を思い浮かべる方が多いかもしれませんね。
でも実は私が思うに、お寺でのお話の仕方というのは、昔と今ではかなり違っているんですね。
もちろん昔も今も、仏様のお話をするということは同じです。
大きく変わってきたのは、その伝え方です。
今ではマイクがあります。
資料が配布されることもあります。
パワーポイントを使っているお坊さんもいます。
動画を撮影してYouTubeなどで配信しているお寺もあります。
私自身もこうして音声配信をしていますから、昔の人から見れば驚くような時代かもしれません。
じゃあ昔はどうだったのでしょうか。
当然ですが、マイクもスピーカーもありません。お坊さんの声のみで伝えます。
照明設備もありません。お参りの人たちの手元は暗いです。
配布資料もありません。もちろんパワーポイント(スライド)もありません。
それでもお寺には今よりもずっとたくさんの人がお参りされていたそうです。お堂いっぱいに人が座り、外まで人があふれることもあったと聞きます。
そういわれると、昔の方が法話を聞くのに不便だったように思うかもしれませんよね。
でも実際にはそんなことはなかったようなんですね。
お堂いっぱいに大勢の人がいたら、後ろの人や外にいる人たちにはお話が聞こえにくいのは事実です。
だから昔は独特な節回しでお話していたお坊さんもいたそうです。
お参りの人に語りかけるように、歌うように話したそうです。歌・和歌を用いたり、節談説教などの文化もありました。
文字を見て、映像を見て、意味を一言一句聞き取るというよりも、耳から入ってくる響きや調子によって仏様の教えが伝わっていったのだと思います。
一方で現代ではどうでしょうか。
今の私たちは、「理解する・わかる・わかりやすい」ということをとても大切にしています。
もちろんそれは大事なことです。
でも私は、昔のお参りの人たちは「聞いて味わう」ということを、今よりも大切にしていたのではないかと思うんです。
お寺で法話がされていると、法話の最中あるいは法話の後、自然とあちらこちらからお念仏の声が聞こえたそうです。
どこからともなく、「南無阿弥陀仏」と声が出てくる。
そんな光景が昔のお寺のお参りの姿です。
お坊さんのするお話を聞いて理解納得するのではなく、仏様のお話が耳に届き、お念仏となって返ってくる。
そこに昔のお寺参りの特徴があったのでしょう。
時代が進むにつれて黒板が登場します。
黒板のおかげで、法話の途中で文字を書くようになりました。
これはとっても便利なことです。
難しい言葉も説明できます。
歴史や人物の名前も分かりやすくなります。
聞き逃しても、黒板を見れば理解できます。
さらに時代が進むと、配布資料やパワーポイントが使われるようになりました。
今では動画配信もあります。動画配信されるということは、遠くのお寺のお話でも自宅で聞くことができます。字幕をつけることができます。何度も聞き返すことができます。
これは本当にありがたいことです。
昔なら聞くことのできなかった先生のお話も、今は簡単に聞けます。
ですから私は、こうした変化が良いとか悪いとか言いたいのではありません。
仏法が伝わればと思って、時代の変化の中で生まれた大切な工夫です。
ただ一方で、お話の聞き方は変わったなあと感じるんです。
昔はお寺の正面におまつりされている仏様を目にしながら耳で仏様のお話を聞いていました。
浄土真宗のお坊さんは本堂の真ん中に立ってお話をしません。
必ず左右どちらかにずれて立ちます。
なぜかというと、お寺のメインはお坊さんではなく阿弥陀様だからです。
私たちはお坊さんを見に来ているのではありません。
仏様を拝み、その仏様のお話を聞きに来ているんですね。
仏様のお話を聞き、仏様を見て、お参りの人たちは仏法に触れていってました。
ところが今は文字を見る時間が増えました。
黒板を見る。
資料を見る。
スライドを見る。
そして大切だと思ったことを一生懸命メモします。
気が付けば、仏様よりも文字や資料に意識が向いてしまうこともあります。
言うなれば、講義や講習会のような雰囲気です。
もちろん学ぶことは大切ですよ。仏法を知識として学ぼうとするのも否定はしません。
しかし私は思っています。
仏様のお話は、知識を増やすためにあるんでしょうか。
そうではなく、本来は仏様を拝みながら、仏様に心を向けながら、聞くものだったのではないだろうかと。
お堂の正面には阿弥陀様がおられます。
そして昔は自然と聞こえていたお念仏の声も、ほとんどなくなりました。
もちろん時代が違うのですから、単純に比べることはできません。
ただ、お寺参りの雰囲気が変わったことは確かでしょう。
そういえば、昔の浄土真宗のお寺には「高座」というものがありました。
法話をする人が高い場所にあがって話をするための道具です。
後ろの人にも姿が見えるようにするためですね。
今では高座の残っているお寺は少なくなりました。
マイクや黒板やパワーポイントといった機械があるからですね。
これもまた時代の変化です。
考えてみますと、お寺でのお話というのは、いつの時代も「どうやったら仏様のお話が伝わるのだろうか」という工夫の連続だったのかもしれません。
伝え方は変わっても、仏様のお話を届けたいという思いは変わっていません。
なので私も、昔はこうであったと懐かしむだけではなく、今の良さや便利さも大切にするべきだと思います。
そして同時に、お寺という場所が本来持っていた「仏様のお話を耳で聞くこと」「仏様を仰ぐこと」「お念仏を口にすること」も忘れてほしくないと思っています。
この前、円龍寺春の法要があったとき、本山布教使の先生が皆様に配る資料をご用意してくれました。
それを最初に配りましょうか?と尋ねると、後からお願いしますと言われました。
初めに配ると、皆さんどうしてもうつむいて資料の方に目が向いてしまいますからね。
おそらくそうならないように、仏様のお話をまず耳で聞いてほしいというお気持ちだったのだと思います。
今は、昔よりも聞くには聞きやすい、知識としては学びやすい時代になったでしょう。
でもお寺での法話は仏法を味わっていく場です。
顔を上げて仏様の方も見て、お話を耳にして、南無阿弥陀仏とお念仏を口にする。
そんなお寺参りの時間は、時代が変わっていっても大切にしていきたいことだと思います。
昔と今では法話の仕方は変わりました。
けれども、仏様のお話を聞きお念仏を申していくということはこれからも変わらないと思っています。
今回は、お寺の法要でのお話の仕方、法話の昔と今についてお話ししました。
浄土真宗では本堂の正面には阿弥陀如来がおまつりされています。お寺の中心は仏様です。
そのため法話をするお坊さんは真ん中を避け、左右どちらかに立ってお話をします。
主役はお坊さんではなく阿弥陀様であり、私たちは仏様を拝み、その仏様のお話を聞かせていただくのです。

正面でお話しないことは、以前お話しています。よろしければそちらもお聞きください。
それと、前回の円龍寺の春の永代経法要での本山布教使の法話音声へのリンクも載せておきますね。そちらもお聞きくださいませ。


