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第339回目のラジオ配信。「戦争のころの記憶」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

8月になると広島や長崎の原爆の日そして終戦の日を迎えます。
戦後81年となり、戦争を実際に経験した方から直接お話を聞ける機会は少なくなりました。
今回は、お坊さんとしてお参りに伺う中で、私が実際に聞かせていただいた三人の戦争体験をご紹介します。
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいるお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回は「私が聞いた、戦争を経験した人の話」を紹介します。
8月になると、広島や長崎の原爆の日、そして終戦の日がやってきます。
今年は戦後81年になります。戦争を実際に経験した方は年々少なくなり、直接お話を聞ける機会も本当に少なくなりました。
私はお坊さんという仕事柄、ご高齢の方とお話をする機会が多くあります。
その中で、戦争当時のお話を聞かせていただくこともありました。
今回は、私が実際に聞いた戦争体験を、その方に代わって紹介していきます。
まず最初は、当時8歳だった方のお話です。
この方は、多度津の白方に住んでいました。
多度津は幸いにも大きな空襲はありませんでした。
それでも、東の方にある詫間には兵隊さんが使う飛行場があったそうで、軍用機が頭の上を飛んでいくのをよく見ていたそうです。
空襲警報が出ると、田んぼの中でもどこでもすぐに身をかがめていたと話してくださいました。
そして終戦を迎えました。
しばらくすると、戦争が終わって日本に来た外国の兵隊たち、いわゆる進駐軍の人たちが、汽車に乗って移動するのを見かけるようになったそうです。
私が「お菓子をもらったんですか」と尋ねると、「もらったよ」と笑って話してくださいました。
でもお菓子は外国の兵隊に声をかけてもらっていたのではないとのことでした。
汽車に乗ったまま、子供の姿を見ると、お菓子を投げてくれたそうです。
その方の記憶では、肌の白い人は投げてくれず、肌の黒い人が汽車の窓からビスケットをたくさん投げてくれたそうです。
チョコレートやキャラメルだったのですかと聞くと、だいたいビスケットだったそうです。
何か珍しい物を投げてくれたことはありましたかと聞くと、
一度だけ缶詰を投げてもらったこともあったそうです。
でもよくわからなくて、学校の先生のところに持って行くと、そのまま戻ってこなかったそうで、「結局、何の缶詰だったのか分からんままや」と懐かしそうに笑っておられました。
外国の兵隊たちがお菓子を投げてくれたのは一年もないくらいの短い間だったらしいですが、戦争が終わった直後の食べ物がない時の思い出は、子どもたちにとっては、そんな小さな出来事が強く心に残っているんですね。
続いては当時9歳で、琴平に住んでいた方の話です。
最近は35度を超える暑さが続いていますよね。
でも子供のころ、戦争の時は今ほどは暑く感じなかったそうです。
住んでいた場所は山や田んぼが多く、とくに近くのお寺や神社に行くと涼しい風が吹いていたそうです。
そして夜は蚊帳をつるだけで眠ることができたと言われていました。
そんな話の中で、印象に残ったのが扇風機のお話です。
戦争中は、お鍋といった金属類が次々と供出されていました。
この方のお宅では、扇風機も供出したそうです。
子どもだったので詳しいことは分からなかったそうですが、「戦争のためだから」と親が出していたそうです。
子どもの頃は、なぜ扇風機まで出さなければならないのか分からなかったそうです。昔の扇風機は金属が多く使われていましたから、そういう理由だったのでしょうね。
でも昔は涼しかったので、扇風機がなくても過ごせたらしいです。
ところが、戦争が終わってしばらくすると、供出された扇風機が倉庫にそのままたくさん残されていたそうです。
「何のために出したんだろう。」
子ども心に、そう思ったことを今でも覚えていると話してくださいました。
そしてもう一人のお話です。
この方は当時5歳で、三豊で終戦を迎えました。
5歳ということもあり、戦争そのものの記憶はあまり残っていないそうです。
それでも、はっきり覚えていることがありました。
それは家の中に、簡単な防空壕があったことです。
庭に大人たちが自分たちで掘った防空壕で、深さが一メートルくらいで、大人が入るには厳しかったらしいですが、子どもならなんとか身をかがめることができる大きさだったそうです。
幸い、この地域も空襲はなかったので、庭に掘った穴には入ることはなかったそうです。
でも大人たちが庭に穴を掘っていたのが記憶に残っているとのことです。
そして甘い食べ物のお話も聞かせてくださいました。
当時は甘いものはほとんどなかったそうです。戦争中はとりあえずサツマイモを作っていたそうです。
もちろんサツマイモだけを作っていたわけではありません。
この方曰く、サトウキビを育てていたそうです。
砂糖を作るためではなく、子どもたちがおやつ代わりに、そのままかじって甘さを楽しんでいたそうです。
また、戦争が終わってからのお話だと思いますが、夏になるとスイカはどこの家でもたくさん作っていて、食べきれないほどあったそうです。
子供のころは食べるものはあまりなかったけども、自分たちで作ったスイカをたくさん食べて、夏を過ごしたことを懐かしく話してくださいました。
今回は当時5歳8歳9歳だった三人のお話を紹介しました。
今回お話しした三人は、幸いにも空襲や激しい戦闘を経験していません。
それでも、こうして80年以上たった今でも戦争の記憶を覚えておられました。
- 家の庭に防空壕を掘ったこと。
- 食べるものが少なかったこと。
- なぜか扇風機まで供出していたこと。
- そして終戦後に汽車からビスケットを投げてくれていたこと。
戦争に行っていない人たちも、それぞれいろんな戦争体験をしてきました。
私が子どもの頃は、戦争を経験した方が身近にいました。
でも今は、そのお話を直接聞ける機会が本当に少なくなりました。
私がお参りの際に聞かせていただいたこうしたお話も、少しでも次の世代へ残していけたらと思っています。
戦争が遠い昔の出来事になっても、その時代を生きた人たちの記憶だけは、忘れずに受け継がれてほしいです。
今回は私が聞いた戦争を経験した人のお話を紹介しました。
3人目のお話では、サトウキビやスイカを食べたという話がありました。この方と同じく当時三豊にいた10歳の人も似たようなお話をされています。
当時10歳の方曰く、戦争中は砂糖や塩などが配給制でした。甘い食べ物は貴重でした。
三豊・詫間はたばこ農家が多く、サトウキビを作っている畑も多かったと記憶しています。ただ、スイカを戦時中に食べた思い出はないそうです。その代わり、マクワウリを作っていてよく食べたそうです。今思えばそんなに甘い食べ物ではないですが、子供のころはマクワウリが甘くておいしかったと話されていました。

2020年にも私が聞いた戦争体験談を話しました。お二人のお話です。
一人は高松空襲を丸亀から見て、翌日高松に行った思い出です。
もうお一人は、愛媛県今治の工場で空襲にあい多度津に帰り、多度津駅で広島で原子爆弾が落ちたことを噂で聞き、再び今治に戻ったその日に終戦を迎えた話です。
音声では話していませんが、戦争が終わった後の盆踊りで食べたかぼちゃがとにかくおいしかったと私に話されていました。


