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第349回目のラジオ配信。「蓮如上人のお手紙の長さ」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

報恩講のお参りで私がよく拝読する蓮如上人の「聖人一流章」
五帖八十通の中で一番短いお手紙だと聞いてきましたが、本当にそうなのでしょうか。
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回は蓮如上人が書かれたお手紙についてお話しします。
皆さんは『御勧章』という言葉を聞いたことがありますか。『御勧章』は『御文』や『御文章』とも呼ばれます。
浄土真宗のお寺やご門徒さんのお仏壇でお勤めしたあとに拝読することがあるので、耳にする機会があると思います。
今回はこの蓮如上人のお手紙について短いものと長いものを調べてみました。
まずは、御勧章とは何なのか、簡単にお話しします。
御勧章というのは、本願寺第八代の蓮如上人が浄土真宗の教えを伝えるために書かれたお手紙です。
御文や御文章などとも呼ばれます。
蓮如上人は全国各地のご門徒に向けて浄土真宗の教えを分かりやすい言葉で伝えようとたくさんのお手紙を書かれました。
そのお手紙のうち八十通をまとめたものが、現在よく読まれている五帖御の御文です。お仏壇横の黒い箱の中に入っているのが、このお手紙です。一帖目から五帖目までを合わせて五帖八十通といいます。
五帖目には拝読することの多い「末代無智」や「聖人一流」、「白骨の御文」などが収められています。
それで私は今回、この五帖八十通の中で、一番短いお手紙は何なのだろうかと気になりました。
というのも、私は十一月や十二月頃に報恩講のお参りに伺うと、お正信偈をお勤めしたあと、ほぼ必ず「聖人一流章」を拝読しています。
この「聖人一流章」は、五帖の中でも一番短いお手紙だけれども、浄土真宗の大切な教えが詰まっているのだと聞いたことがあります。
実際、とても短い文章の中に浄土真宗の肝要が簡潔に述べられています。
で本当に、この「聖人一流章」が一番短いのだろうかと気になって数えてみました。
そこで、御勧章(五帖八十通)をパラパラと見て、短そうなのを数えてみました。
まず五帖目第十通の「聖人一流」は約160文字でした。結論から言うと、聞いてた通り、この聖人一流章が一番短いお手紙でした。
短いお手紙を挙げていくと、五帖目第一通の「末代無智」と五帖目第三通の「在家の尼入道」はそれぞれ約200文字。五帖目第十九通の「末代悪人女人」は約220文字でした。
今回数えてみた中では「聖人一流章」だけが200文字以内のお手紙でした。
他、短そうに見えたものでは二帖目第六通の「掟・他力信心」がありました。これは約320文字でした。
他力信心について述べるだけでなく、門徒としての振る舞いや世間での心得なども書かれています。そのぶん文章も長くなっていました。
少なくとも私が調べた範囲では「聖人一流章」が一番短いようです。
ただし、今回調べたのは五帖八十通のお手紙内のことです。
蓮如上人のお手紙には五帖に収められていない「帖外御文」などもあります。なので、蓮如上人が書かれたすべてのお手紙の中で、一番短いものが「聖人一流章」なのかどうかまではまだ分かりません。
それでも普段から拝読している「聖人一流章」が、五帖の中でも特に短い文章であることはあらためて確認できました。
ところで、一番短いお手紙は本当に聖人一流章なのかと調べていたら、今度は逆に、長いお手紙は何だろうということが気になってしまいました。
五帖の中で長そうなお手紙を探すと、四帖目第八通の「八か条」が長そうに見えました。文字数は約2000文字ありました。
「聖人一流章」が約160字ですから、それと比べるとずいぶん長いですよね。
この四帖目第八通の「八か条」は文章が長いので、細かい内容についてはここでは控えますが、簡単にどんなことが書かれているのか紹介しますね。
このお手紙も報恩講について書かれています。
親鸞聖人のご命日のお勤め、御正忌報恩講に参詣する人たちは、ただお参りをするだけでなく、浄土真宗の教えを聴聞・聞いて、真実の信心をいただくことが大切なのだと説かれています。
そしてまた、その報恩講の期間に守るべきこととして、八つのことが示されています。
ご門徒さんに対して書かれていることもありますが、お坊さんに対しても書かれているので、お坊さんに対してのことを紹介しますね。
例えば、お酒を飲み過ぎないようにほどほどにすることや、ご門徒さんたちと信心について学ぶことといった心得が書かれています。
ご門徒さんとお坊さんに対して8つの心得が書かれた後、最後に南無阿弥陀仏の六字の意味について述べられています。
全文を現代語訳すると、かなり長い文章になりますので、細かな内容についてはまた別の機会で紹介します。
短いお手紙と長いお手紙を比べてみると、10倍以上と、文章の長さにもずいぶん違いがあることが分かりました。
短い「聖人一流章」には、浄土真宗の肝要が簡潔に示されています。
一方、四帖目第八通の「八か条」には、報恩講に参詣する人たちへの心得や信心についての具体的な勧めなどが詳しく書かれています。
これは短いから大切で長いから大切ではないという話ではありません。
ただ約160文字という短い文章の中に、浄土真宗の大切な教えが簡潔に示されていることも、聖人一流章の特徴の一つなのだと思います。
今回は蓮如上人の5帖のお手紙の中で短いものと長いものを調べてみました。
文字数の少ないお手紙

句読点や空白などの捉え方によって、正確な文字数を数えることは難しいでしょう。ここでの数字は、おおよその文字数と思ってください。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
およそ160文字
それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。このうへには、なほ後生のたすからんことのうれしさありがたさをおもはば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
およそ200文字
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
およそ200文字
それ、末代の悪人・女人たらん輩は、みなみな心を一つにして阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとやうにたのみ、後生をばねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、かならず御たすけあるべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
およそ220文字
そもそも、当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して、決定せしむるひとこれあらば、その信心のとほりをもつて心底にをさめおきて、他宗・他人に対して沙汰すべからず。また路次・大道われわれの在所なんどにても、あらはに人をもはばからずこれを讃嘆すべからず。つぎには守護・地頭方にむきても、われは信心をえたりといひて疎略の儀なく、いよいよ公事をまつたくすべし。
また諸神・諸仏・菩薩をもおろそかにすべからず。これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆゑなり。ことにほかには王法をもつておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくはへて、世間の仁義をもつて本とすべし。これすなはち当流に定むるところの掟のおもむきなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
およそ320文字
文字数の多いお手紙
そもそも、今月二十八日の報恩講は昔年よりの流例たり。これによりて近国・遠国の門葉、報恩謝徳の懇志をはこぶところなり。二六時中の称名念仏、今古退転なし。これすなはち開山聖人の法流、一天四海の勧化比類なきがいたすところなり。このゆゑに七昼夜の時節にあひあたり、不法不信の根機においては、往生浄土の信心獲得せしむべきものなり。
これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。
一 諸国参詣の輩のなかにおいて、在所をきらはず、いかなる大道・大路、また関屋・渡の船中にても、さらにそのはばかりなく仏法方の次第を顕露に人にかたること、しかるべからざる事。
一 在々所々において当流にさらに沙汰せざるめづらしき法門を讃嘆し、おなじく宗義になきおもしろき名目なんどをつかふ人これおほし。もつてのほかの僻案なり。自今以後かたく停止すべきものなり。
一 この七箇日報恩講中においては、一人ものこらず信心未定の輩は、心中をはばからず改悔懺悔の心をおこして、真実信心を獲得すべきものなり。
一 もとよりわが安心のおもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、その不審をいたすべきところに、心中をつつみてありのままにかたらざるたぐひあるべし。これをせめあひたづぬるところに、ありのままに心中をかたらずして、当場をいひぬけんとする人のみなり。勿体なき次第なり。心中をのこさずかたりて真実信心にもとづくべきものなり。
一 近年仏法の棟梁たる坊主達、わが信心はきはめて不足にて、結句門徒同朋は信心は決定するあひだ、坊主の信心不足のよしを申せば、もつてのほか腹立せしむる条、言語道断の次第なり。以後においては、師弟ともに一味の安心に住すべき事。
一 坊主分の人、ちかごろはことのほか重杯のよし、そのきこえあり。言語道断しかるべからざる次第なり。あながちに酒を飲む人を停止せよといふにはあらず。仏法につけ門徒につけ、重杯なれば、かならずややもすれば酔狂のみ出来せしむるあひだ、しかるべからず。さあらんときは、坊主分は停止せられてもまことに興隆仏法ともいひつべきか。しからずは、一盞にてもしかるべきか。これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、これをとどまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。
一 信心決定のひとも、細々に同行に会合のときは、あひたがひに信心の沙汰あらば、これすなはち真宗繁昌の根元なり。
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
そもそもこの八箇条のおもむきかくのごとし。しかるあひだ、当寺建立はすでに九箇年におよべり。毎年の報恩講中において、面々各々に随分信心決定のよし領納ありといへども、昨日今日までもその信心のおもむき不同なるあひだ、所詮なきものか。しかりといへども、当年の報恩講中にかぎりて、不信心の輩、今月報恩講のうちに早速に真実信心を獲得なくは、年々を経といふとも同篇たるべきやうにみえたり。しかるあひだ愚老が年齢すでに七旬にあまりて、来年の報恩講をも期しがたき身なるあひだ、各々に真実に決定信をえしめん人あらば、一つは聖人今月の報謝のため、一つは愚老がこの七八箇年のあひだの本懐ともおもひはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明十七年十一月二十三日
およそ2000文字


