8月31日午後7時~、円龍寺本堂にて、灯籠流し法要

三途・三塗って、どんなところ?浄土真宗の「三悪趣」とは#341

第341回目のラジオ配信。「三途(さんず)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

かっけい
かっけい

「さんず」って、どんな漢字を書くか知っていますか?

「三途の川」のことかなと思うかもしれません。

でも仏教には「三塗」と書く「さんず」があります。

そしてこの三途・三塗は、亡くなった後の話だけではありません。

今回は、今を生きている私たちの中にもある「三途」そして「三悪趣」についてお話ししました。 

内容まとめ
  • 「三途」と「三塗」は、どちらも「さんず」と読む
  • 「三塗の黒闇ひらくなり」と、お正信偈の和讃にも出てくる
  • 浄土真宗では、亡くなった人は三途の川を渡るの?
  • 三途・三塗とは、地獄・餓鬼・畜生の「三悪趣」のこと
  • 地獄・餓鬼・畜生は、亡くなった後だけではなく、今を生きる私たちの中にもある
  • 阿弥陀様が四十八願の最初に「無三悪趣の願」を立てられたのはなぜ?
  • 「三塗の黒闇ひらくなり」という言葉を、私たちはどういただくのか

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。

今回は「三途」をテーマにしてお話ししていきます。

さて皆さん、「さんず」ってどんな漢字を書くか思い出せますか?

「三途の川」という言葉は、皆さんも聞いたことがありますよね。

亡くなった人があの世へ向かう途中に渡るとされる川ですね。

閻魔大王の裁きを受けるというイメージと一緒に語られることもあります。

その「さんず」を漢字で書いてくださいと言われたら、どうでしょうか。書けますか。

「さん」は数字の三ですね。

ちょっと難しいのは「ず」の方です。

余るという漢字に、しんにょうがついた「途」が一般的でしょうか。

この「途」という字は、道とか、途中とか、そういう時に使う字ですよね。

でも、「塗る」という漢字の「塗」、こちらの「三塗」という書き方も仏教ではよく出てきます。

浄土真宗の方でしたら、お正信偈のお勤めに続いて和讃を読むとこちらの「塗る」の「三塗」のほうが出てくるので、なじみがあるかもしれません。

たとえば

仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

という和讃があります。

この中に出てくる「さんず」が、「塗る」の方の「三塗」です。

ではこの「三塗」っていったい何なんでしょうかね。

実は、どちらの三途・三塗も地獄・餓鬼・畜生という三つの世界を表す言葉として使われます。

「三途」といえば、やっぱり最初に思い浮かぶのは「三途の川」ですよね。

人が亡くなると三途の川を渡ってあの世へ向かっていき、閻魔大王の裁きを受ける。

そんなイメージを持っている方も多いと思います。

そして、亡くなった人のために、三途の川を渡るための六文銭を持たせたり、旅装束を用意したり、あるいは守り刀を持たせたりする。

いわゆる「冥土の旅」の風習もありますよね。

でもここで浄土真宗の教えから、確認しておきたいことがあります。

それは、浄土真宗では亡くなった人が三途の川を渡って、冥土の暗い世界を旅をして、それからどこかへ行く、という教えではないということです。

浄土真宗の仏様は阿弥陀様です。

その阿弥陀様の願いをいただく私たちは、この命が終われば、阿弥陀様のお浄土に生まれ往くといただきます。

だから、浄土真宗のお葬式では、棺の中に三途の川を渡るための六文銭を入れませんし、冥土の旅に必要だからと、守り刀や旅装束を用意したりする必要もありません。

浄土真宗では、亡くなった方は三途の川を渡らない。

そう聞くと、「じゃあ、三途って、浄土真宗には関係ない話なのかな」と思うかもしれません。

でもそうではないんですね。

「三途」という言葉は、今を生きている私たちにとって、とても大切な言葉だと私は思います。

三途・三塗というのは、仏教では「三悪趣」ともいいます。

地獄・餓鬼・畜生。

この三つのあり方のことです。

昔から、人が亡くなると、こうした地獄や餓鬼や畜生の世界に生まれることが説かれてきました。

でも、浄土真宗の教えをいただいてみると、地獄や餓鬼や畜生というのは、亡くなった後に初めて行く世界というよりも、むしろ、今の私たちの生き方そのものではないかと思うんですね。

例えば、地獄です。

「三塗」という言葉には、火・刀・血という三つの意味があると説明されます。

地獄というと、炎で激しく焼かれ続けるといった恐ろしい世界。

そして鬼がいて傷つけられ、またお互いに傷つけあい、殺しあうような世界です。

今の生き方でいうと、苦しみの中でも争いを繰り返し、お互いに傷つけあっている世界のことを、地獄といえるのではないでしょうか。

自分のほうが正しい。

相手が間違っている。

そうやって、お互いに自分の正しさを主張して相手を責め続ける。

そんな世界が生きている私たちの世界にもありますよね。

これも地獄のようなあり方ではないでしょうか。

次に、餓鬼です。

餓鬼というのは、いつもお腹を空かせていて、どれだけ食べても満たされない存在として、昔から説明されてきましたよね。

刀で追い立てられているような、落ち着くところがない世界ともいえるでしょう。

これも私たちに無関係な話でしょうか。

いいえ、そうではないですよね。

お金でも物でも評価でも人気でも、一つ手に入ったら、それで満足するのではなく、

「次はこれが欲しい」

「あっちの方がよさそうだ」

と、どんどん別のものが欲しくなります。

また、相手の方がいいものを持っているとうらやましくなる。

そんなふうに、満足することなく、うらやみ、むさぼり続けようとするのが、生きている私たちの世界の餓鬼のようなあり方なんですね。

そして畜生です。

仏教でいう畜生は、動物という生き物そのものが悪いものだと言っているわけではありません。

ここでいう畜生の世界とは、自分の人生を自分で歩もうとしないこと。

主体的に生きる道を自ら閉ざして、周りに流されて生きることだと、私は思います。

言い方を変えると、獣のように、本能のままに生きようとするのが畜生道の世界でしょう。

自分の人生を自分で考えることをしなくなってしまう。

どんどん無為にむなしく人生を過ごしてしまう。

そういうあり方です。

現代でいえば、AIに頼ることそのものが悪いということではありません。

でも自分の人生なのに

「ネット・SNSでみんながそう言っていたから」

「AIがこうすればいいと言ったから」

と、自分で考えたり判断したりすることまで手放して、そのまま従ってしまう。

そんな生き方も、畜生のあり方に通じるところがあるんじゃないかなと思います。

これもまた私たちの中にないでしょうか。

こうやって考えると

「三途って、亡くなった後に行く世界でしょう」

とは、なかなか言えないと思います。

今、この私が生きている世界の中にも、三途のようなあり方がたくさんありますよね。

人と争い傷つけあい、もっともっとと欲しがり、周りに流されて、自分で自分の人生を決められずに生きていく。

そういう意味では、私たちは生きている今から、三途のような世界を作り出しているんですね。

だからこそ、仏教では、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣」という言葉を大切にしているのだと思います。

浄土真宗では『仏説無量寿経』をとても大切なお経としています。

この『無量寿経』には、阿弥陀様が私たちのために立てられた48の願いが説かれています。

その一番最初に出てくる願いが、三悪趣のない世界をつくるという願いです。

地獄や餓鬼や畜生。

そういう世界のないお浄土をつくると、阿弥陀という仏様は願われたんですね。

48ある願いのその一番最初に、地獄・餓鬼・畜生のない世界についての願いが置かれている。

それだけ、私たちの生きている世界というのは、三悪趣に傾きやすい世界なんだと思います。

それじゃあ、地獄・餓鬼・畜生のない世界って、どんな世界でしょうか。

私はこんなふうにも言えるんじゃないかなと思っています。

地獄というのは、常に火で焼かれ、苦しみ、相手を傷つけようとする争いの世界です。

だから、地獄のない世界というのは、いのちを大切にしようとする世界。

餓鬼というのは、欲しがっても欲しがっても満たされない世界。

相手をうらやみ、相手のよろこびを、自分のよろこびとして受け取れない世界です。

だから、餓鬼のない世界というのは、相手を思いやり、つながりを大切にできる世界。

そして畜生というのは、自分で考えることをやめて、周りに流されて生きていく世界です。

だから、畜生のない世界というのは、自分のいのちを大切にしながら、よろこびをもって生きていける世界。

そんな、いのちとつながりとよろこびを大切にできる世界が、三途とは真逆の世界なのではないでしょうか。

もちろん、これは私たちが頑張って、地獄・餓鬼・畜生を全部なくして、理想的な人間になりましょう、という話ではありません。

私たち自身が、そんなに簡単に自分の中の地獄や餓鬼や畜生をなくせるわけではないんですよね。

だからこそ、阿弥陀様が私たちのために願ってくださった。

私たちの世界が、地獄・餓鬼・畜生に傾きやすいことを見通した上で、その三悪趣のない世界を願ってくださったんです。

三途の世界、地獄・餓鬼・畜生という言葉は、今を生きている私たちにも向けられている言葉なんだと思います。

決して、亡くなった後に初めて出てくる世界でも、閻魔様に会うための通過点でもないんですね。

お釈迦様が説かれたお経は、今を生きている私たちに向けて説かれたものです。

そして、阿弥陀様が三悪趣のないお浄土を願われたということも、私たちの世界が地獄・餓鬼・畜生にあふれていることを見通したからなのではないでしょうか。

三途は亡くなってから関係してくるものではなく、生きているうちから、今の私たちの生き方を振り返っていくためにある言葉なのかもしれません。

「今、あなたはどんなふうに生きていますか」

そう私たちに問いかけ、私たちの生き方を照らそうとしてくれる言葉だともいえるでしょう。

冒頭に紹介した和讃の中に

「三塗の黒闇ひらくなり」

という言葉があります。

私たちの中にある、地獄・餓鬼・畜生といった三塗の黒い闇を、仏様の光が照らして、明らかにしてくださる。

一見すると

「自分には悪いところがない」

「自分は人よりも優れている」

と思っていても、少し心の奥深くを見てみると、地獄・餓鬼・畜生のような生き方が見えてきます。

「ああ、私にもそういうところがあるな」

と気づかせていただく。

その気づきをいただけたところに、仏様の光が届いているんだと思います。

そうやって、自分の中にある地獄や餓鬼や畜生に気づかせていただきながら、それでも私を見捨てない阿弥陀様の願いを聞かせていただく。

その中で少しずつでも、いのちと、つながりと、よろこびを大切にした人生を歩ませていただく。

それが仏教のありがたい教えであり、浄土真宗に生きる私たちの人生の歩みなのかなと思います。

今回は「三途」についてお話ししました。

仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ

『浄土和讃』より

かんたんな訳

  • 阿弥陀仏の光の輝きがは何よりもすぐれています
  • 他の仏様の光に並ぶものがないから光炎王仏といわれます
  • 阿弥陀様の光明にあえば三塗(地獄餓鬼畜生)の真っ暗な闇が明らかになります
  • 最高に敬われる尊い阿弥陀仏に私たちはお任せしていきましょう
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「いのち・つながり・よろこび」は浄土真宗の興正派が伝える大切なテーマの一つです。

2022年に香川県にある郡家別院の仏教青年会より、コラム記事の寄稿を依頼され、「つながり」をテーマに書きました。よろしければお読みください。

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